大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成3年(あ)16号 決定 1992年11月20日

本店所在地

東京都新宿区高田馬場四丁目二九番六号

大日ビル株式会社

(右代表者清算人 萩原光男)

本籍

東京都新宿区高田馬場四丁目二九番

住居

同所同番六号

会社役員

加藤年男

昭和一五年二月四日生

右の者らに対する法人税法違反、宅地建物取引業法違反各被告事件について、平成二年一一月二一日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人らから上告の申立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人石井春水外二名の上告趣意のうち、違憲をいう点は、実質において単なる法令違反の主張であり、証拠請求却下の措置に関して判例違反をいう点は、実質において単なる法令違反の主張であり、その余の判例違反をいう点は、原判断に沿わない事実関係を前提とするものであり、その余は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 橋元四郎平 裁判官 大堀誠一 裁判官 味村治 裁判官 小野幹雄 裁判官 三好達)

平成三年(あ)第一六号

○ 上告趣意書

被告人 大日ビル株式会社

同 加藤年男

右両名に対する法人税法違反等被告事件につき、弁護人らは、左記のとおり上告趣意書を提出する。

平成三年五月七日

右被告人両名弁護人

弁護士 石井春水

同 中川一

同 酒井憲郎

最高裁判所第一小法廷 御中

目次

序・・・・・・一四五四

第一 本件第一審判決の要旨など・・・・・・一四五五

第二 弁護人の控訴趣意の要旨(本件第一審裁判所が冒した重大な誤り)・・・・・・一四五六

一 被告人側の自認は、やむを得ない事由によるものであって、被告人の真意に基づくものでないことを看過したこと(訴訟手続の法令違反)・・・・・・一四五六

二 検察官が主張、立証した本件脱税額と、その算出根拠は、本件事案の真相に即したものでないことを看過したこと(事実誤認)・・・・・・一四六四

三 量刑不当・・・・・・一四六八

第三 本件上告申立理由・・・・・・一四六八

一 第一審裁判所の冒した誤りを看過した原判決の誤り・・・・・・一四六九

第一点 認否手続、証拠調べ手続に訴訟手続の法令違反、最高裁判所判例違反、憲法違反があること

第二点 重大な事実の誤認があること・・・・・・一四七二

第三点 甚だしい量刑不当があること・・・・・・一四七六

二 原判決自体の冒した誤り・・・・・・一四七九

第四点 原判決は、刑事訴訟法第三九二条違反、最高裁判所判例違反があること・・・・・・一四七九

第五点 原判決は、刑事訴訟法第三九三条違反、最高裁判所判例違反、憲法違反があること・・・・・・一四八〇

結語・・・・・・一四八二

原判決には、憲法違反、最高裁判所判例違反があり、また、判決に影響を及ぼすべき法令違反、同じく重大な事実誤認があり、さらに、甚だしく不当な刑の量定があって、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認めざるを得ない。

よって、やむなく本件上告申立に及んだのであるが、上告申立理由を開陳するに先立ち、これに直接至大の関係がある本件第一審裁判所の冒した誤りを指摘することが不可欠であると信ずる。なんとなれば、原判決は、弁護人の控訴申立理由を違法、不当にも悉く排斥し、第一審判決を認容し、支持したが、なかんづく、原審は、当職ら弁護人が控訴趣意において、本件第一審裁判所が当初から冒した基本的、決定的、致命的な訴訟手続の法令違反という極めて重大な問題を提起しているにもかかわらず、これを一顧だにせず、弁護人に対し、わずかに第一審判決後の情状のみに限定する被告人質問だけを許し、検察官答弁書に対する反論書、訴訟進行に関する意見書、最終弁論、といういずれも重要事実の公判顕出を一切封止し、ましてや、第一審裁判所の訴訟手続が、当初の滑り出しから違法状態にあったという基本的、決定的、致命的な原由に対して、調査はおろか、判決にも一言半句の判断すら示さず、有罪理由の綻びることを虞れて、第一審判決を支持することに、ひたすら奔命しているのであって、原判決の冒した重大な誤りのすべてが、挙げてこの点に胚胎しているからにほかならないのである。

それ故、不本意ながら控訴趣意書と若干重複せざるを得ないという、まことに残念な事態を招き、甚だ遺憾に堪えないということを予め記しておきたい。

第一 本件第一審判決の要旨など

本件第一審判決は

被告人加藤年男は、被告会社大日ビル株式会社の代表取締役として、同社の業務に関し、(1) 同社の法人税を免れようと企て、同社専務取締役萩原光男と共謀の上、売上や期末棚卸高を除外し、あるいは架空の外注加工費、企画設計料、現場管理費、支払手数料及び近隣対策費を計上する方法により所得を秘匿して、昭和五七年一二月期から昭和五九年一二月期までの三事業年度にわたり、実際所得金額の合計額が一六億五、三八〇万一、四六四円、課税土地譲渡利益金額の合計額が一八億二、一二五万円もあったのに、所轄税務署長に対し、所得金額の合計が三億三、六七二万七、五五四円であり、土地重課税の対象となるべき土地譲渡利益金額は存在しないので、これに対する法人税額は一億一、六〇七万二、六〇〇円である旨記載した内容虚偽の確定申告書を提出し、そのまま法定の各納期限を徒過させ、もって不正の行為により同社の法人税合計九億二、三一四万八、七〇〇円を免れ、(2) 法定の免許を受けないで、昭和五九年八月一日ころから、昭和六一年九月三日ころまでの間、前後一八回にわたり、宅地二三筆及び建物一〇棟を代金六八億六二〇万六、〇〇〇円で買い受け、昭和五九年七月一〇日ころから昭和六二年二月五日ころまでの間、前後七回にわたり、宅地一一筆及び建物一棟を代金一一五億二、〇九〇万五、〇〇〇円で売り渡し、もって宅地建物取引業を營んだものである。

との事実を認定した。

要するに、被告人は、被告会社の業務に関し、昭和五七年より昭和五九年までの三事業年度において法人税合計九億二、〇〇〇余万円を脱税したほか、法定の免許を受けないで、昭和五九年より昭和六二年までの間、合計二五回にわたり、宅地、建物合計四五件の買受け、売渡しをして宅地建物取引業を営んだ。

というものであって、被告人に対し、懲役二年六月の実刑、被告会社に対し、罰金二億円に各処する旨、判決を言渡したのである。

しかして、被告人および第一審弁護人は、第一審第一回公判において、公訴事実を全面的に自認したため、審理は一気呵成に進み、被告人側の取調べ請求証拠は若干の情状証人にとどまり、表向きはなんらの曲折もなく、判決に至ったのであって、ここに、本件の重大な問題の発端があることをまずもって強調したい。

第二 弁護人の控訴趣意の要旨(本件第一審裁判所が冒した重大な誤り)

本件第一審弁護人は、第一審判決後全員辞任し、新たに選任された当職ら弁護人がした右判決に対する控訴趣意の要旨は次のとおりである。すなわち、本件第一審裁判所は、到底見逃すことができない、少なくとも次の二点の重大な誤りを冒し、ひいて量刑不当の誤りを冒しているものである。

一 被告人側の自認は、やむを得ない事由によるものであって、被告人の真意に基づくものでないことを看過したこと(訴訟手続の法令違反)

その第一は、本件第一審裁判所は、被告人側が第一回公判の認否手続において自認したものの、この自認はまことにやむを得ない事由によるものであって、被告人の真意に基づくものではないということを十分認識しながら、殊更これに目を覆い、いともたやすく、この自認を容認して審理、結審、判決するに至ったという、重大な訴訟手続の法令違反である。これは、審理不尽、判断遺脱も甚だしいところであって、その理由は、次のとおりである。

本件第一回公判の認否手続において、被告人と第一審弁護人は、公訴事実を全面的に自認し、検察官の冒頭陳述にも異議を挟まず、検察官の取調べ請求証拠にすべて同意し、次いで裁判所は、さながら好機逸すべからずとして、検察官の立証を許し、矢継ぎ早、一気呵成に膨大な量の検察官側証拠の取調べを終了してしまった。この間の手際の良さと言わんか、蒼惶たる様と言わんか、まさに一驚に価する。そして、これに引き続き、第一審弁護人は、不可解にも「弁護人側の立証は、もっぱら情状に関するものであって、立証計画はすでに提出済みである」旨陳述した。すなわち、弁護人は、弁護人の立証手続に入る以前の段階で、すでに裁判所に対し立証計画を提出する策を弄した。ということは、裁判所に対し、第一回公判以前の段階からして公訴事実を全面的に認めることを予告、予約し、挙げ句の果て、これを担保するため情状の立証計画書まで提出しているわけである。これは、一体何を意味するものであろうか。言わずと知れたことである。後記するところと総合考慮すれば、これは、自認することを条件に、検察官側立証を早急に終了した上、直ちに被告人に対する保釈許可の同意、決定を得たいという意図であったと解釈する以外に解釈のしようがないところである。これらのことは、第一審第一回公判調書、第一回公判終了後、即日提出された保釈許可申請書、同理由補充書と保釈許可決定書を一瞥すれば明白である。

しかしながら、この被告人側の自認は、やむを得ない事由によるもので、被告人の真意に基づくものでないこと、そして、このことを第一審裁判所が十分認識していたことは、右の経緯に加え、以下によっても明白である。

すなわち、かりに右自認が真意に基づくものであるならば、第一審弁護人が、後に情状事実と称して主張した事実が、実はその内容から直ちに理解し得るとおり、実質において公訴事実そのものを争うものであるにもかかわらず、なにが故にこれを情状事実であると主張したのかという、至極当然な疑問が必然的に浮上するからである。これを要するに、第一審弁護人は、情状事実という名の衣を着せて争点そのものを提起したにほかならず、被告人の真意ではないにもかかわらず、公訴事実を自認してしまった以上、自縄自縛となって表立った本音の争点提起ができないため、やむを得ず苦肉の策として情状事実の名を借りたに過ぎず、そして、このように明白なことを豊富な経験を有する職業裁判官をもって構成された第一審裁判所が認識しなかったはずはないのである。

第一審弁護人が、このように持って廻る、及び腰の訴訟行為をとらざるを得なかったことは、後記のとおり、保釈の同意、許可を得たいという、まことにやむを得ない事由(動機、理由)があったためであり、これが唯一の事由であった。

しかるに、第一審裁判所は、弁護人の見えすいたこの訴訟行為を、あえて容認して審理を進行したが、これは、実体的真実主義という刑事訴訟法の基本的原則に背反し、また、訴訟指揮権を全く有名無実化、形骸化し、さらに被告人の防禦権を侵害したものと言わざるを得ないのである。なぜなら、かかる場合、裁判所としては、適切に訴訟指揮権を行使し、有罪の陳述が被告人の真意に出たものでないことが疑われるに至った場合における簡易公判手続の取消(東京高判昭三三・三・一一裁特五・一一二)制度の法意に倣い、弁護人に対し釈明を求め、注意を喚起した上、争点を顕在化して審理を尽くした後でなければ真実を認定することは許されないからであって、ここに重大な審理不尽がある。言うまでもなく、裁判の結果を左右するに足る重要事実を公判に顕在化することなく事実を認定することは、被告人の最も重要にして本質的権利である防禦権を侵害することとなり、ひいては事実誤認を生むが故にほかならないのである。

これほど甚だしい審理不尽は、前例をみないものではないかと虞れる。

ところで、ここで付言したいが、争点事実に関する第一審裁判所の措置に対する本職らの右批判に対し、一つの反論が予想される。それは、本件第一審判決をみると、弁護人側の情状事実の主張に対し、その実質において争点事実と同視した判断を加えている、という反論である。なるほど、第一審判決の「量刑の理由」欄には、争点事実に対する判断の体をなしているがごとき文言がある。しかしながら、弁護人の主張を、「架空であると否認することには問題がある」、「架空経費として否認するのは疑問である」とか、「被告会社の所得とされるのは疑問である」という文言を用い、かつ、「量刑の理由」欄で取り上げていること自体、形式的には、あくまで情状事実に関する主張として処理しているのみならず、実質的にみても、その判断の用に供された証拠は、弁護人がやむを得ず自認した結果とはいえ、不承々々取調べに同意せざるを得なかった、すべて検察官側書証の枠内にとどまり、しかも、第一審裁判所は、被告人側の右自認と同意を違法、不当にも容認してしまったからには、当然とはいえ、被告人側に対し、右書証の供述者、作成者に対する反対尋問、または反証の機会を与え、あるいはこれを勧告するとか、注意を喚起する等の措置をした形跡は全く無いのである。したがって、予想される前記反論が成立する余地はない。本件事案の本質に迫った判断とは到底言えるものではない。のみならず、ここにおいても、被告人側の証人審問権、ひいては防禦権を侵害している事実が残るのである。

さて、そこで次に、本件第一審弁護人が被告人の真意に基づくものではない自認を余儀なくされ、正規に争点を提起することができなかったやむを得ない事由(動機、理由)が奈辺にあったかを、より明確化したい。

刑事訴訟法は、訴訟経済を図るため、諸種の規定を設けており、例えば、同法三二七条の「合意による書面」等の規定もその一環であり、かかる規定がない場合であっても、訴訟当事者間に明示、黙示の「合意」が行われていることは法曹実務家の常識である。しかしながら、ここで重要な問題として強調しておきたいことは、その合意は公正、適正、かつ訴訟当事者が納得したものでなければならず、さもなくば「合意」の名に価するものではないということである。これは、冗言するまでもなく「当然の事理」に属する。そして、本件において、最も決定的な合意の典型こそ、次の一事である。ただし、単なる形式的な意味合いの、その名に価しない「偏頗な合意」に過ぎないものである。

この一事とは、第一審第一回公判のいわゆる認否手続が被告人側の自認によって終了し、次いで裁判所が許した検察官の矢継ぎ早、一気呵成の立証が終了した後に至って初めて、未決監で病気呻吟しながら渇望していた被告人の保釈について、ようやく検察官の同意が成り、第一回公判期日の三日後にようやく保釈許可となったという事実にほかならない。長期間勾留された者の苦悩、苦痛の甚大なことはあえて説くまでもないが、本件の保釈許可の同意、決定が、その名に価しない「偏頗な合意」の産物でなくしてなんであろうか。これこそが第一審第一回公判において被告人側が自認のやむなきに至り、それ故にこそ表立った争点の提起ができなかったことの動機、理由である。

もしかりに、被告人側が保釈許可の同意、許可を求めることを棚上げして、第一審第一回公判において脱税の犯意を否認し、あるいは脱税額の多寡を積極的、大々的に争い、検察官の取調べ請求書証等を全面的に不同意として、被告人の真意を明示したならば、結果はてき面、訴訟が長期化するは勿論、検察官の立証が難渋し、あるいは著しく困難化し、その主張が瓦解するか破綻するに相違なく、裁判所が訴訟の収拾に手を焼くことは火をみるより明らかである。しかも、被告人に対する保釈許可の同意、決定が当面絶望的であることも明らかである。さればこそ、保釈を得たいがため、検察官の同意と裁判所の許可決定が明示、黙示の取引材料となり、被告人側にとって、保釈許可という好結果を得るためには、公訴事実を全面的に自認し、検察官の請求書証等の取調べに同意せざるを得ず、他方、検察官にとっては、被告人側の自認と右同意が立証の簡易化という好結果に繋がったのである。被告人側の自認と争点不提起の動機、理由が、まさにここにあったことは一点の疑いもなく、他にそれを想定し得る余地は全くない。

認否手続における被告人側の自認は、アメリカ刑事訴訟における「bargain」と同一の制度ではないが、この自認が、我が国において保釈の同意、許可と陰に陽に交換条件となっていることは、厳然として「裁判所に顕著なる事実」であり、法曹実務家にとって「悪しき常識」であることは疑いがない。

しかしながら、われわれは、この点に極めて重大な疑義を持つものである。なぜなら、この交換条件制が無用、不用、ナンセンスな否認を防圧するという副次的な効用があることは頷けるが、本来、認否制度と保釈制度とは全く無縁のものであって、訴訟当事者間の「悪しき運用」によって「合意」の対象となっている事態は、わが刑事訴訟法が認めるところではないからである。しかも、本件の場合、前記した経緯から明らかなとおり「偏頗な合意」であるから、「合意」の名に価しないものである。それ故、被告人側は、釈然としないまま苦肉の策として情状事実に名を借りて争点提起をせざるを得なかったのである。

しかるに、本件第一審裁判所は、被告人側がやむを得ない事由によって真意に基づかない自認をしたことを十分認識しながら、これに目を覆い、自認を容認し、被告人の基本的権利である防禦権を侵害し、後記のとおり、真相に即していない検察官の主張、立証した脱税額と、その算出根拠を全部ひたすら鵜呑みにして採用するに至ったのである。

なるほど、第一審裁判所の立場からすれば、被告人側が公訴事実を自認するか、逆に否認するかは、爾後の訴訟進行の帰超を計る重大な岐路であって、被告人側が自認すれば、一般に、単純、明解、簡便、容易に訴訟が進行し、否認すれば、本件の場合、検察官の損益計算法による立証体系は、単なる部分的な手直しなどびぼう策では賄えず、勘定科目が相互に密接関連するため、関係諸表の大部あるいは全部の煩雑な再検討に手を伸ばさざるを得ず、その再修正を余儀なくされるので、訴訟が複雑、難解、煩さ、晦渋に陥り遅延するため、いきおい被告人側の自認を歓迎せざるを得ない心情が働くことは、容易に理解し得るところではある。

しかしながら、本件第一審裁判所は、被告人側の自認が、やむを得ない事由による真意に基づかないものであることを十分認識しながらこれを容認したばかりではなく、争点となるべき事実の存在をも十分認識しながら、故意に看過してその顕在化を封止したまま審理、結審、判決したのである。これは、わが刑事訴訟法が予想だにしなかった事態であって許されるべきものではなく、即同法第一条違反であり、後記する最高裁判所判例違反であり、適正手続を保証した憲法第三一条違反、証人審問権を保証した憲法第三七条違反に該当するものである。ただに審理不尽にとどまらない異常の事態と言わなければならない。

ところで、本件第一審裁判所が、右のごとき違法、不当な審理に終始したとする当職ら弁護人の主張の正当性を一層明確化するため、ここで本件第一審弁護人の訴訟行為をとりあげてみたい。それが、本件第一審裁判所をして、右のごとき蒼惶とした審理に走らしめた有力な一因と認められるからである。

本件第一審弁護人の本件訴訟行為(訴訟戦術)は、一言にして覆えば、残念ながら不見識、卑屈なものであったと評価せざるを得ないのであって、さればこそ、争点提起はもとより、あらゆる問題点について、積極的姿勢を持った訴訟行為をとり得るはずがなく、その結果、第一審弁護人が真相に即していない検察官の主張、立証を破砕することはもとより、これを動揺せしめることすらでき得るわけがなく、これを罷り通させるに至ったのである。そこで、その顕著な二例を挙げてみたい。

その一は、検察官が本件捜査に着手した後、検察官に対し展開した上申書攻勢と評すべきものであり、本件の関係者多数の上告書が弁護人の発意によって作成、提出された事実である。一体全体、本件第一審弁護人は、果たしてこれら上申書の内容が逐一「すべて真実である」との心証を得て作成させたものであろうか。否、到底然りとは言い得ない代物である。百歩を譲り、逐一「すべて真実である」との心証を得て作成させたとするも、客観的、結果的には、第一審判決が言うところの「罪証湮滅工作に及んでいる」ことに、手を貸したことは、各上申書の内容が、後日これら関係者の検察官調書によって一斉に押しなべて軒並み覆されている一事によって明白であって、第一審判決は、その点まで言及しなかったに過ぎないのである。第一審弁護人が、このような、まさしく弱味を露呈した事態を踏まえては、到底検察官に対し攻防の委曲を尽くせるわけがなく、対等の立場で、公正、適正な納得ある「合意」をすることもでき得るわけもなく、これが検察官の意のままの主張、立証を罷り通させた有力な一因でもあると断ぜざるを得ない。

なお、ここで本件の検察官調書の信用性について、注意を喚起したい。第一審弁護人間には、上申書の内容が検察官調書によって覆った一事により、最早他に手だて無しといった無力感、脱力感に支配され、いわば戦意を失ったことは否めないが、さればといって上申書の内容が逐一「すべて虚偽である」と断定することの危険性という問題がある。「事実にはすべて二面性がある」ことは、まさしく真理であるが、一斉に押しなべて軒並み内容が覆っていることがむしろ不自然、不合理であって、ここに一方的な予断に基づく評価が先入主となっていることを推定し得るのである。ましてや、本件のごとく土地売買という間断なく多数の人物が直接、間接、濃密、淡白、複雑に関与してくる業種にあっては、その関与の人物、程度を把握し難く、その結果、抽象的な供述によって関与人物の有無、関与の程度を即断し、記憶の稀薄化した供述者にこれを押し付けて調書化することが極めて危険であるからにほかならない。ところが、この最大の欠陥を冒したのが本件の検察官調書である。

さて次に、第一審弁護人の不見識、卑屈な訴訟行為の顕著な例の二は、前記したとおり、本件の脱税額、脱税率の認定に直接至大な影響力を持つ事実点に関する争点を全く提起せず、これを単なる情状事実にすり代えて消極的に主張したことである。その決定的な動機、理由が、前記のとおり、未決監で病気に呻吟する被告人が渇望していた保釈の同意、許可を得るためであって、まことにやむを得なかったことではある。しかし、それにしても不見識、卑屈である。これは、争点提起とみるべき事実点の証拠調べ請求においても同様であって、これを極めて姑息に、かつ消極的に行い、しかも、これら請求をことごとく撤回してしまっているのである。そして、この間の事情を第一審裁判所が、気付かなかったとか、知らなかったなどと言えるはずはなく、もし然りとすれば、それこそナンセンス以外のなにものでもない。

第一審第一回公判において、公訴事実を不承々々自認した結果とはいえ、これら第一審弁護人の訴訟行為が検察官の経験則、社会通念に背反した主張、立証を罷り通させたのである。このような第一審弁護人の訴訟行為のもとでは、その内容自体からみても明らかなとおり、検察官との間に対等関係とか、公正、適正が保証され、納得された「合意」の徴表は片鱗だに認められず、ましてや、殊の外「合意」を必要不可欠とする本件脱税事件において、検察官と被告人側との間に、公正、適正な納得された「合意」が成り立っていたとは到底認め難く、このことは、弁護人の最終弁論が、被告人側の事実点に関する証拠が全く顕出されていないため、検察官側の証拠の枠内にのみ限定されてこれに材をとり、加えてわずかな情状証人の証言に材をとって行われたこと自体に明瞭に表われている。この点は、前記したとおり、本件第一審判決についてもまさしく当てはまる欠陥である。

二 検察官が主張、立証した本件脱税額と、その算出根拠は、本件事案の真相に即したものでないことを看過したこと(事実誤認)

さて、本件第一審裁判所が冒した誤りの第二点は、検察官の主張、立証した脱税額とその算出根拠が本件事案の真相に即したものではないにもかかわらず、これを看過し、盲目的、無批判的に、表現を換えれば、右の主張、立証をそのまま機械的に一分一里の狂いもなく全面採用したという点である。

いわゆる脱税事件が、刑事事件としてわが国の裁判所に登場してすでに時久しいが、由来、国家機関等による課税権の行使という問題は、優れて行政的、政策的要素に支配される分野であって、いかに諸般の諸理論を縦横に駆使してみたところで、これを否定することはできない。ひっきょう政策的要素が強く作用して、結局、関係当事者間の「協力」ひいては「妥協」、これらの用語が失当とすれば法令用語にいう「合意」と解して可なりと考えるが、この「合意」ということを当然の前提とする行政裁量にまたなければ埒が明かず、解決できない分野であることは、社会通念であり、いわゆる世の常識でもある。したがって、これが脱税事件として刑事事件に発展すれば、司法判断になじまない問題が表面的にも多々生起する。したがって、課税という分野には、調査あるいは査察段階からして関係当事者、特に税務当局と納税義務者間等に明示、黙示の「合意」の要素が決定的に作用する性質のものであり、脱税案件がその延長線上にある刑事事件に転化されたところで、「合意」の要素を軽視、無視することができないということをそれこそ直視しなければならない。好むと好まざるとにかかわりなく、この種事件に付きまとう必要不可欠の必須の条件である。それ故、脱税事件において、特に納税義務者が妥協を排して調査あるいは査察段階から完全に黙秘権を行使し、これに対する協力を拒否すれば、それが他の処罰規定違反となり得るは格別、税務当局は、脱税の事実を完全無欠、正確に捕捉することは困難となり、いわゆる行政判断という至極便宜で怪しげな権限を用いて、納税義務者が納得する範囲内で「おおよその認定」を下す以外にはない。これは、行政裁量としてやむを得ない措置であって、おおむね容認せざるを得ないであろう。しかし、一転してそれが刑事事件ともなれば、厳密に証拠裁判主義、実体的真実主義に即した判断を貫くことが求められることは理の当然である。さすれば、「おおよその認定」によって有罪を認定することは許されるものではない。しかも、かような場合に用いられる「事実上の推定」にも限界が生じ、あいまい模糊とした証拠と事実関係の迷路に引き込まれ、底無しの泥にはまりこんだ体となり、結局、「犯罪の証拠がないとき」に帰看せざるを得ないことは法曹関係者にとり自明の理である。さればこそ、本件においても、第一審の捜査、公判を通じて検察官と被告人側に明示、黙示の「合意」が成立していたことは到底否定できず、その一典型が「合意」の名に価しない「偏頗な合意」ではあるが、前記した本件被告人の保釈を巡る問題である。

ところで、この「合意」は、刑事訴訟の当事者に求められる最低限度の要請であると確信する。しかし、事は、被告人の有罪、無罪が厳格に判定されるべき裁判の場の問題であるが故に、前記したところを繰り返すが、公正、適正にして、かつ訴訟当事者の納得した「合意」、そのものでなければならないことは理の当然であって、然らざれば、「合意」の名に価するものではなく、強いて言えば、単なる「偏頗な合意」に過ぎない。

そこで、この理に即して本件をみるに、第一審においては、訴訟における力関係の重心が過度に検察官側に偏在し、しかも、検察官の恣意のままに捜査、審理が進行したのであって、その間に真にその名に価する「合意」は存在しなかったものである。すなわち、本件事案の実体について言えば、まず、脱税額とのその算出根拠は、当時の被告会社、被告人が位置した業界の取引実態に対する理解を欠き、また業界の取引慣例を無視したものであって、その結果、まさしく合理性と妥当性を欠くに至ったものである。

世上、極めて多数の各種業界があるが、課税額、ひいては脱税額と、その算出根拠を正確に把握するには、当該納税義務者、被嫌疑者が位置する各種業界の取引の実態および慣例を理解した上、これを尊重することが否応なく要求されるべきものである。にもかかわらず、検察官はこれを無視し、独断的に評価しており、これが許されないことは理の当然である。なぜなら、業界における取引の実態と慣例を無視ないし否定すれば、それこそ、「合意」というものは雲散霧済して宙に浮く結果、納得がみられる適正、妥当な課税額の算出、脱税額の認定なるものは体をなさず、単なる砂上の樓閣と化し、納税義務者、あるいは無言のまま多大の関心を払い、その間の事情に注目している世論の心服、納得が期待できないことは多言を要しないからである。

したがって、健全な「合意」を得るためには各業界の取引の実態と慣例に対して、是非善悪などの評価を陳腐な行政通達や誤った世の常識を基準として短絡的に加えるべきものではなく、納税当局や検察官の越軌の自由判断に委ねられるべき筋合いのものでもなく、ましてや司法判断がこれらの判断に惑わされてはならないのであって、この場合、各業界の取引の実態と慣例については

資本主義経済体制下の自由競争市場において、私企業の経済活動(営業)の規範として、具体的法規範に違背しているか否かと、それが著しく社会正義に反するような特段の事情下にあるか否か

を基準として合理的に判断されるべきであるということに尽きる。

ところが、本件においては、右のごとき意味合いの健全なる「合意」の名に価するものは成立していなかったものである。

加えて、検察官の捜査過程における被疑者、関係者の取調べ等の証拠収集態度、方針はもとより、これを引き継ぎ墨守した第一審立会検察官が主張、立証したところは、政府の土地政策の不在を度外視して、一方的に不動産業者に地価高騰の責を帰せしめんとする余り、過度に被告会社、被告人の罪に対し、一方的非難をあらわにしたり、被告会社のいわゆる系列会社で、検察官が関連会社と称している新宿ビル株式会社を目して、多くの同業他社が系列会社を抱えて税務対策に腐心している公然たる実態を無視し、単純皮相な観点から、明言してはいないが、暗黙にペーパーカンパニーと評価したり、あるいは、被告会社に対し、使途を熟知しながら、本件関係の莫大な営業資金を貸し付けた金融機関の社会的責任を直視することを回避し、また、いわゆる地上げ屋が社会的非難を強く受けていた当時に、これと同視されて検挙され、マスコミ報道を手初めに、あらゆる非難を集中された本件被告会社、被告人の刑責について、「弱り目に祟り目」の追討ちをかけ、大丈段に苛斂誅求の途をとることのみに急であったのである。

以上の次第で、当職ら原審弁護人が控訴趣意書第二章以下で、具体的に主張したとおり、前記の判断基準に背反したため、社会通念と経験則に違背し、無理無体に一方的に社会の実体からかい離した事実を認定しているのである。

そして、本件第一審裁判所は、本件の真相に即しない、この検察官の主張、立証をひたすら鵜呑みにして採用した誤りを冒しているものである。結局、本件第一審裁判所は、以上のような訴訟状態を十分認識し自覚しながら殊更放置し、これを拱手傍観して審理し、事案の真相に即しない検察官の主張、立証の上に漫然便乗し、犯罪事実を構築して不当過大な脱税額を認定して事実誤認を冒し、その結果不当な刑を量定するに至ったのである。

したがって、誤解を招くことをおそれずに言うならば、本件第一審の審理、判決は、検、弁、裁三者のいわば誤った以心伝心の結実に過ぎなかったものとすら言い得るところである。

三 量刑不当

本件第一審裁判所の冒した訴訟手続の法令違反と事実誤認が、ひいては量刑不当を招いたことは、あえて論ずるまでもないところである。ただ、被告人がいわゆる裏金を作ったのは、佐賀鍋島家から懇望された果てのやむを得ない唯一の動機によるものであって、世上、脱税犯について流布されているように私腹を肥やすがための動機が皆無であったことに理解を示さなかった第一審判決は、被告人にとって無念の一語に尽きるということを付言したい。

第三 本件上告申立理由

本件第一審裁判所は、前記第一の項に詳記したとおり、本件の基盤を揺るがすべき基本的、決定的、致命的問題に目を覆い、その公判顕出を懈怠して、やみくもに検察官の主張、立証に審理の進行を委ねた末、判決したものである。原審弁護人は、この違法性、不当性の是正を求めて控訴申立てに及んだのであるが、原裁判所は、控訴申立理由中、肝心の要である第一審裁判所の冒した訴訟手続の法令違反の点に対しては、聴く耳を持たぬがごとく、全く黙って語らないという違法を冒し、事実誤認の点に対しては、個別的主張のみを取り上げて、「第一審第一回公判において、被告人が全面的に公訴事実を認めている」とか、「第一審が採用している書証については、被告人側が証拠とすることに同意している」などという事実の真相に肉薄したとは到底評価することができない低次元の論法を用いて排斥し、量刑不当の点に対しては、若干原審の被告人質問の結果を採用してはいるものの、本質的には、第一審判決の量刑事情をひたすらそのまま踏襲して判示するにとどまっているのである。

かくして、原判決は、弁護人の本件控訴申立理由を違法、不当にも臆面もなくことごとく排斥し、第一審裁判所が冒した誤りをすべて看過して、第一審判決を是認し、支持した。

そこで、以下において、第一審裁判所の冒した誤り、ひいては、これをそのまま引き継いで維持した原判決の誤りと、原判決自体の冒した誤りとに区分して、本件上告申立理由を記述することとしたい。

一 第一審裁判所の冒した誤りを看過した原判決の誤り

第一点 認否手続、証拠調べ手続に訴訟手続の法令違反、最高裁判所判例違反、憲法違反があること

本件第一審裁判所は、本件審理にあたって、被告人側の自認がやむを得ない事由、すなわち被告人が渇望していた保釈許可を得たいがために、その交換条件としてなしたもので、真意に基づくものでないことを十分自覚し、認識しながらこれを容認した。そして、これに続く証拠調べ手続等はもとより、判決もまた、公正、適正に非ざる「偏頗な合意」に基づく合意の名に価しない、この自認の上に構築されたものである。

したがって、被告人側の自認を容認した第一審裁判所の処置は、形式的真実に甘んずる民事訴訟法ならば格別、実体的真実主義をとる刑事訴訟法第一条に違反し、かつ、審理不尽がある。しかして、同法第三七九条所定の控訴申立理由となる訴訟手続の法令違反には、判決の直接前提となる審判手続が法令違反となる場合をも含むことは当然であり、右の同法第一条違反は、もしこの違反がなければ、本件第一審判決は生じなかったであろうという観点から判決との間に具体的に因果関係が存在し(最大判昭三〇・六・二二刑集九・一一八九)、判決に影響を及ぼした蓋然性は極めて高度にして明白であると言わなければならない。

そして、本件第一審裁判所のこの訴訟手続の法令違反は、ひいては最高裁判所判例に違反する。すなわち、最高裁判所は、関税法違反に対する判決(最判昭三七・一一・二八刑集一六・一一・一五九三)において、憲法第三一条にいう「法律の定める手続」の内容を明確に判示し、「第三者の所有物を没収する場合において、その没収に関して当該所有者に対し、何ら告知、弁解、防禦の機会を与えることなく、その所有権を奪うことは、著しく不合理であって、憲法の容認しないところであるといわなければならない。………前記第三者の所有物の没収は、被告人に対する附加刑として言い渡され、その刑事処分の効果が第三者に及ぶものであるから、所有物を没収せられる第三者についても、告知、弁解、防禦の機会を与えることが必要であって、これなくして第三者の所有物を没収することは、適正な法律手続によらないで、財産権を侵害する制裁を科するにほかならないからである」とした上、「関税法一一八条一項によって第三者の所有物を没収することは憲法三一条・二九条に違反するものと断ぜざるを得ない」と判示したが、本判決が、右判旨において、「適正な法律手続」という文言を用いていることは、本条が「法律が定める適正な手続」を要求した規定であることを宣明したものである。すなわち、法律手続によらなければならず、それが適正なものであることを要するとしたものである。

以上のごとく、行政手続において然り、ましてや刑事司法手続において、これが極めて厳格に求められるべきであることは今更多言を要しない。被告人側の保釈許可を得たいと言う意図を十分認識しながら、これに目を覆い、極めて重大な刑事訴訟の出発点であり、訴訟進行の帰趨を計る重大な岐路となるべき認否手続を形式的に進め、被告人の真意に基づかない自認を、真意に基づく自認として取り扱い、かつ、被告人に防禦の機会を与えなかったことは、明らかに本判例に違反するものである。

なお、本判例以後も、最高裁判所は、過料を科する手続が非訟事件手続法によるものとされていることと、憲法三一条との関係についての決定(最大決昭四一・一二・二七民集二〇・一〇・二二七九)において、憲法第三一条の「法律の定める手続」を「法律の定める適正な手続」と判示し、当事者に告知・弁解・防禦の機会を与えることが、その適正な手続の内容をなすことを明らかにしている。

さらに、いわゆる個人タクシー免許事件に対する最高裁判所判決(最判昭四六・一〇・二八民集二五・七・一〇三七)において、「事実の認定につき行政庁の独断を疑うことが客観的にもっともと認められるような不公正な手続をとってはならないと解される」として、行政庁が独断と疑われることのない公正な手続をとるべきである旨判示している。もっともその根拠までは示していないが、それは、上告申立理由が憲法三一条を主張していなかったことに対応しているに過ぎず、その要求が憲法上の要求であり、かつ、その根拠が本条にあることは明らかである。また、いわゆる群馬中央バス免許事件に対する最高裁判所判決(最判昭五〇・五・二九民集二九・五・六六二)は、右の個人タクシー事件に対する最高裁判所決定の延長線上にある判決である。

かくして、本件第一審裁判所の認否手続が、これら判例にも違反しているが、かりにこれら判例が本件に適用することが適切ではないとしても、これらの判例の判旨から認められる趣旨に徴し、適正手続を保障した憲法第三一条違反、証人審問権を保障した憲法第三七条違反に該当することは明らかである。

したがって、この第一審裁判所の冒した誤りを看過した原判決は、当然第一審裁判所と同等の誤りを冒したことに帰着する。

なお、本職ら原審弁護人の、この点に関する控訴申立理由を指して、訴訟手続の法令違反については、その旨の柱を立てて明確に主張している趣旨とは解されないと批判する向きが無いとは言えない。しかしながら、控訴趣意書の冒頭において、くどいほど執拗に主張したこの理由に対する、かかる批判が不当であることは、言うまでもないところである。

第二点 重大な事実の誤認があること

本件第一審判決は、検察官の主張、立証した脱税額と、その算出根拠が本件事案の真相に即したものではないにもかかわらず、これを看過し、盲目的、無批判的に全面採用したことは、検察官の冒頭陳述書と判決書を比較対照すれば明白である。

しかして、それがとりも直さず、真実の脱税額の二倍以上という不当過大な脱税額を認定するごとき事実誤認を招いたのであって、その委細は控訴趣意書において詳説したところであるから、ここでは省略するが、事実誤認の典型的、象徴的なものを一点だけ具体的に挙げることとする。それは、ほかでもなく、加藤建材(株)との取引に関するものである(控訴趣意書二七頁裏)。

すなわち、第一審判決添付別紙一の2の修正製造原価内訳書(昭和五七事業年度)において、企画設計料として当期増減金額三、三一六万一、一〇〇円(過小計上額も通算)が計上されていて、これが公表金額より減額されているがこの金額のうち加藤建材(株)に対する架空企画設計料といわれる三、五〇〇万円が支払側の被告会社と受入側の加藤建材(株)のいずれにもその形跡が全くなく、しかも、この認定の根拠となった検察事務官大竹利忠ほか一名作成の昭和六二年六月二二日付捜査報告書四四枚目で「証拠」として挙示する四点の書証、証拠物たる書面のいずこにも、これを認定するに足る記載がないのである(記録第二分冊一九四丁表、捜査報告書)。すなわち、いかなる証拠に基づいて、いかなる思考段階を経て、架空企画設計料三、五〇〇万円なるものを認定するに至ったかの根拠と認定の経緯とが全く不明であって、突如、架空企画設計料三、五〇〇万円が認められると称し、やみくもに出現させている、いわば幽霊金に過ぎないのである。

そして、この点は、原判決においてもまことにあいまい模糊としている。すなわち、原判決は、右問題の「捜査報告書によれば、被告会社は、宮前物件の譲渡代金の一部を企画設計料として公表計上する一方、加藤建材(株)に対する企画設計料三、五〇〇万円を架空計上したとされており、被告人は原審第一回公判廷において右の点を含め、公訴事実をすべてそのとおり間違いない旨陳述し、右捜査報告書を証拠とすることに同意しているのである」旨強引に捜査報告書の根拠薄弱、否、無根拠の単なる架空記載を措信できるときめつけ、しかも、被告人側の真意に基づかない自認と、この真意に基づかない自認の結果不承々々証拠とすることに同意した点とを逆手にとって控訴棄却の理由付けとしており、さらに、被告人の検察官に対する供述調書末尾添付の「宮前三丁目のメモ書写し」という、このメモがなんらこの問題とは無関係である旨、原審において当職ら弁護人が検察官の答弁に対する反論書(三九頁)においてるる詳細に反論したにもかかわらず、これを一顧だにすることなく公判顕出を許さず、しかも、理由付けの一部に用いるという不合理と非論理な採証法則違反を冒しているのである。架空であると判断されたこと、それ自体が架空としか言いようがない。

これが本件第一審判決と、これを単に踏襲し、逃晦した論理によって維持した原判決が冒した事実誤認の最たるものである。

しかして、この点の事実誤認のみを以てしても、判決に影響を及ぼすことが明らかである。ましてや、控訴趣意書において主張したごとく、本件第一審判決は、本件逋脱額について、検察官主張を全面的に採用して、通算九億二、三一四万八、七〇〇円、逋脱率も通算して八八・三パーセントに及ぶなどと巨額、高率を認定したが、これは明らかに事実誤認であって、本件逋脱額は最大に見積もっても右認定の二分の一以下の四億四、四八九万五〇〇円に過ぎず、右の過大な逋脱額認定という重大な事実誤認が判決に影響を及ぼすことは極めて明白であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと信ずる。

ところで、原判決は、控訴棄却の理由付けとして、しきりに、「原判決に挙示する関係各証拠によると、次の事実を認めることが出来、これに反する被告人の原審公判廷における供述は、他の関係証拠に照らし、にわかに措信することが出来ない」(原審判決書三頁表)とか、「これに反する原審公判廷における被告人の供述は、捜査段階における被告人の供述や他の関係証拠に照らし、にわかに措信することができない」(同八頁表)、「しかし、右書面は原審において同意書面として取調べられている上、その記載内容が他の関係証拠と良く符合していることに照らし、その信用性に疑義を挟む余地は全く存しない」(同一一頁裏)、「被告人は、原審公判廷において………所論に副う供述をしているが、右供述は、被告人の捜査段階における供述や他の関係証拠に対比して、到底措信するを得ない」(同一三頁表)、「これに反する原審公判廷における被告人の供述は、その捜査段階における供述とも異なるほか、他の関係証拠に照らし、到底措信することが出来ない」(同一六頁裏)とか、前掲のとおり、「被告人は原審第一回公判において右の点を含め、公訴事実はすべてそのとおり間違いない旨陳述し、右捜査報告書を証拠とすることに同意している」(同二二頁表)、「これに反する被告人の原審公判廷における供述は、被告人の検察官に対する昭和六二年六月一七日付供述調書とも異なる上、他の関係証拠に照らし、到底措信することは出来ない」(同二四頁表)、「所論は、……の事実について供述した被告人の検察官に対する昭和六三年六月一七日付供述調書は信用出来ない旨主張するが、右調書は、原審において同意書面として取調べられている上、大江哲也の検察官に対する供述調書二通とも良く符合しているので、その信用性について疑いを挟む余地は全く存しない」旨、紋切型の定型的、平板一律、低次元の判断形式の文言を羅列しているが、その言うところは、要するに、「被告人の原審公判廷の供述は、捜査段階の被告人の供述や他の関連証拠に照らし措信できない」ということと、逆に本質的にこの判示と明らかに矛盾しているが、「原審第一回公判で公訴事実を認め、書証を証拠とすることに同意している」ということに尽きる。

さてそこで、これらのことから、果たしてなにが問題かをたやすく酌みとることができる。すなわち、言わずと知れたことであるが、被告人側は、なに故第一回公判において公訴事実を自認し、書証にも同意したかということの動機、理由と、逆に、にもかかわらず、なに故公判において捜査段階の自白を翻したかということの動機、理由であって、これらの動機、理由について、第一審裁判所は不当にも全く意に介することなく平然とした態度をとっている。だからこそ、原裁判所もまた、当職ら原審弁護人が、控訴趣意書において、これを問題として提起し、第一審第一回公判における被告人側の自認が被告人の真意に基づくものでないこと、そして、その結果不承々々ながら書証の取調べにも同意せざるを得なかったことを強く主張したのに対し、その重大な事情の底辺を流れている、いわく因縁を意識的に宙に飛ばして、右主張に一言半句も答えることなく、相矛盾する自認、供述の信用性をいともたやすく、ひたすら自己の論理に副うように引用し、採用するという独断、偏見をあらわにした違法を冒しているのである。

これは、本件第一審判決および原判決に終始一貫して共通する致命的欠陥であって、このような方針をとらざるを得なかった理由は、極めて明白である。脱税事件などという煩瑣な案件に対しては、ひたすら面倒、粉砕を避けて、殊更、問題を矮小化し、吹き上がる問題意識を振り払って、冷徹に事務的に訴訟を進行し、仮りにも紛糾させ、泥沼化させるがごとき進行を回避し、いち速く判決に漕ぎつけるにしかずという意識を、はしなくも、また、ゆくりなくも露呈したのである。そのなによりの例証は、原審公判において、検察官の答弁書に対する弁護人の反論書はもとより、弁護人の訴訟進行に関する意見書、最終弁論の陳述を軒並み制止して許可しなかった点に表われている。弁護人が、これらの陳述で言わんと欲したことは、改めて言うまでもないが、皮相的、表見的に表層のみを見て下す形式論理を駆使した無難主義的浅薄な判断を排し、本件事案の深層にある本質的な問題に対し、真剣に取り組んだ、被告人が真底から心服する判断を得たいということであったのである。この点、残念の一語に尽き、近時の裁判官の一傾向を思い知らされるところである。

第三点 甚だしい量刑不当があること

本件第一審判決は、前記したとおり、訴訟手続の法令違反、最高裁判所判例違反、憲法違反と、重大な事実の誤認があって、この違反と誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、当然、甚だしい量刑不当があることは言うまでもない。そして、この第一審判決を支持した上、それ自体にも後記の違法、不当の欠陥を有する原判決もまた、第一審判決に対する非難にまさる批判を受けるべきであって、これを破棄しなければ、文字どおり著しく正義に反するものである。したがって、原判決が弁護人控訴趣意書中の量刑不当の主張に対して判示するところも(原判決書二八頁表以下)、違法、不当の認定を前提としているので、これに対し、とかくの論難を加えても無意味、無価値と言わざるを得ない。しかしながら、被告人にとって、この点に関する原判決の誤解をとく必要性が極めて強いので、次に反論を加えたい。

原判決は、まず、被告人が被告会社の業務に関し、昭和五七年より昭和五九年までの三事業年度において法人税合計九億円余を免れたほか、昭和五九年七月ころより昭和六二年二月ころまでの間合計二五回にわたり、無免許で宅地建物取引業(宅建業)を営んだとして、これら犯行が長期にわたっているし、逋脱額が巨額にして逋脱率も八八.八三パーセントと高率である旨認定している。

しかしながら、原裁判所は、弁護人が脱税額は第一審判決認定額の二分の一以下であることの資料として控訴趣意書に添付した再修正損益計算書、再修正製造原価内訳書、修正脱税額計算書の諸表に対し、これが重大な控訴申立理由であるにかかわらず、これを調査したとみるべきいかなる形跡も皆無であるのみか、原判決において一言半句の判断も示していない点を強く批判したい。この批判に対し、原判決は、控訴趣意書本文中の個別的主張に対して逐一判断を加えているので、この判断がとりも直さず右諸表の措信できない所以であると言うであろうが、子細にみると、右個別的主張に対する判断が右諸表をすべてカバーし、判示しているわけではなく、明らかに審理不尽と判断遺脱がある。にもかかわらず、「原判決の認定した逋脱額に誤りのないことはすでに説示したとおりであり」などと、とう晦する弁を用い、誤った逋脱額を逆に正当と称して量刑の第一要因に挙げる失態を演じている。

また、本件に対する査察着手前に修正申告の上納入した法人税本税と付帯税を、実質的な逋脱税から控除して量刑判断すべきであるとする本職ら弁護人の主張に対し、査察着手前の修正申告とその完納は逋脱犯の成否に消長を来すものではないなどと判示し、量刑不当の主張を排斥する理由としているが、弁護人は、逋脱犯の成否に何ら消長を来すか否かなどという論ずるまでもないことを問題としているのではない。実際の国税行政の処分において、修正申告、納入の有無を大きな酌量の事由としているという現実を踏まえて、この点を量刑においても重要な要素として酌量事由とすべきであると主張しているに過ぎない。理由そごも甚だしいところである。さらに、原判決は、「宅建業法違反に至っては免許を受けずに多数回にわたり反覆継續した」旨認定しているが、本件の約二年半の長期間にわたる同法違反が果たして多数回にわたると評価できるか否かに問題があり、多数と然らざる場合の境界をいかなる線に求めたものか全く不明であるのみならず、右違反を行わざるを得なかった事情に一片の配慮すら加えておらず、判示するところもないのは極めて不当である。そして、原判決は、以上のごとく、逋脱額の高額性、逋脱率の高率性、宅建業法違反の多数性について誤った認定をしたにもかかわらず、「これらの点のみをもってしても本件は極めて悪質かつ重大な事案であるといわざるを得ない」という極めて表見的、形式的、高圧的評価を下していることは、ことごとく根拠を欠き、被告人のみならず、本件に重大な関心を持つ向きを心服、納得させるものではないと言わざるを得ない。

しかも、原判決は、右のごとき誤った判旨に加えて、「前事件の判決を受けたにもかかわらず、右事件の審理中から本件犯行を計画し、その手段として徹底した所得秘匿工作を講じたほか、国税当局の査察、検察庁の任意取調べを受けた段階でも、犯行否認と脱税協力者作成の虚偽上申書多数を捜査機関に提出して犯行隠蔽工作に及び、逮捕勾留された後、漸く犯行を認めた」旨、本職ら弁護人のこの点に関する主張に一片の配慮すら加えることもなく、たやすくかような誤った認定をした上、本件犯行の態様が極めて計画的かつ大胆巧妙である上、動機にもなんら酌むべきものが認められない旨評価している。

ところで、すでに執拗に過ぎるほど前記したところであるが、本件第一審裁判所の訴訟手続が当初の滑り出しから違法状態にあったが故に、事実認定、刑の量刑以前の問題として、第一審判決破棄差戻し、または破棄自判を求めた当職ら原審弁護人の主張を一顧だにせず、その調査を懈怠し、判決において一言半句の判断すら行なうことなく回避し、ひたすら第一審判決のき尾に付すが如く、これを支持して、せいぜいその上塗りと繰返しに終始した原裁判所の審理、判決の在り方からすれば、かくのごとき結論に帰着せざるを得ない窮状は察するに余りあると言う以外に言うべき言葉を知らない。要するに、本件第一審裁判所と原裁判所の犯罪感が、脱税即極悪という、融通性を欠く誤った頑迷固ろうな観念に支配されていることが如実に表われており、甚だ遺憾に堪えない。

二 原判決自体の冒した誤り

第四点 原判決は、刑事訴訟法第三九二条違反、最高裁判所判例違反があること

刑事訴訟法第三九二条は、控訴審の審理は当事者主義を原則とするものの、実体的真実主義ないしは法令の正当な適用を確保するという立場から、控訴理由のすべてにわたって職権による調査理由の権限を控訴裁判所に付与しているが、もとより義務的な職権調査ではないから、控訴趣意書に包含されない事項について調査しないからといって違法ではないとする最高裁判所の判例(最決昭二五・五・一八刑集四・八二六、同昭二五・一一・一六刑集四・二三二三、最判昭三〇・九・二九刑集九・二一〇二)がある。しかしながら、同判例の中には、控訴審が第一審の誤りを看過したのは違法であるとして刑事訴訟法第四一一条により破棄した事例が多く存在する。すなわち、最判昭二六・七・二〇刑集五・一六〇四、同昭三〇・一二・二〇刑集九・二九〇六、同昭三二・一一・一刑集一一・三〇三七等々がそれであって、これら判例は、そこに指摘されたような一審の重大な誤りについては、例外的に控訴審の職権調査義務を認めた趣旨と解される。

翻って本件をみるに、当職ら原審弁護人は控訴趣意書において、本件第一審の認否手続、これに引き続く証拠調べ手続が訴訟手続の法令違反である旨、しかもこれが重大な誤りであることを主張したにもかかわらず、原裁判所がこれに一顧だに加えず、審理を終了し、原判決において一言半句の判断すら示さなかったものであり、これがとりも直さず、刑事訴訟法第三九二条に違反するとともに、第一審の重大な誤りを看過したのは違法であるとした前記最高裁判所の判例となった事例の趣旨に違反することは極めて明白である。そして、この訴訟手続の法令違反が判決に重大な影響を及ぼすべき性質のものであり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものである。

したがって、この一点のみをもってしても、原判決は同法第四一〇第一項、第四〇五条第二号、または第四一一条第一号により到底破棄を免れないものである。原裁判所が、弁護人の右主張に一顧だにせず、一言半句の判断もしなかったのは、要するに本件第一審において歴とした弁護人があり、そして、自認しながら、後になってこの自認を翻すのは、控訴事件における被告人側の常套手段であるとするマンネリズム的思考が禍した故であって、それ以外に考え得る余地は全くない。

第五点 原判決は、刑事訴訟法第三九三条違反、最高裁判所判例違反、憲法違反があること

原裁判所は、当職ら原審弁護人が控訴趣意書に基づき、取調べを請求した萩原光男の証人尋問と被告人加藤年男の本人質問について、被告人加藤年男についてのみ、しかも、第一審判決後の情状だけにつき質問することを許すにとどまった。すなわち、刑事訴訟法第三九三条第二項により、第一審判決後の刑の量定に影響を及ぼすべき情状についてのみ立証を許し、同条第一項による前条(第三九二条)の調査をするについて必要な事実の取調べを拒否したのである。

由来、控訴審における「事実の取調べ」については問題が多いが、そのうちでも最も重要にして困難な問題は、第一審で取り調べなかった新しい資料を取り調べることができるものか、できるものとすれば、その範囲如何という点である。そして、最高裁判所判例(最決昭五九・九・二〇刑集三八・九・二八一〇)は、同法第三九三条一項本文の解釈として、新証拠であっても、第一審判決以前に存在した事実に関するものである限り、職権により無制限に取り調べることができる旨、この問題に関する最高裁判所としての基本的見解を明示し、必ずしも明確ではなかった従来の判例に終止符を打ったのである。すなわち、同決定は、弁護人の上告趣意は適法な上告理由にあたらないとしながらも職権判断を加え、「右『やむを得ない事由』の疎明の有無、控訴裁判所が同法三九三条一項但書により新たな証拠の取調を義務づけられるか否かにかかわる問題であり、同項本文は、第一審判決以前に存在した事実に関する限り、第一審で取調ないし取調請求されていない新たな証拠につき、右『やむを得ない事由』の疎明がないなど同項但書の要件を欠く場合であっても、控訴裁判所が第一審判決の当否を判断するにつき必要と認めるときは裁量によってその取調をすることができる旨定めていると解すべきである」としたのである。

かくして、刑事訴訟法第三九三条第一項本文の解釈としては、「やむを得ない事由」の疎明の有無等、同項但書の要件の存否とは全く無関係であり、当時者の請求による場合であると、裁判所の職権による場合であるとを問わず、第一審判決以前に存在した事実に関するものであって、控訴審が第一審判決の当否を判断するについて必要があると認める限り、無条件であらゆる新証拠を取り調べることができるというものである。したがって、同条第一項本文と但書との差は、前者が裁量的、後者が義務的であるに過ぎないこととなるのである。

このことは、本決定の後に出た最高裁判例(最決昭五九・一一・一三)が、新証拠が原判決後に作成提出されたものであった場合ですらも、同条第一項本文により取り調べることができる旨判示したことにより、一層明白となったのである。

翻って、本件をみるに、原審において弁護人が取調べを請求した証人萩原光男はもとより、被告人加藤年男もまた、本件第一審において取り調べられなかった新しい証拠であることは疑いがない。なぜなら、原審弁護人が右両名の取調べを請求した立証の趣旨とするところは、主として次の二点であり、その一は、第一審の認否手続における被告人側の自認がやむを得ない事由によるもので、被告人の真意に基づくものでないという、いわば本件訴訟の帰趨を左右すべき重要事実の経緯と、第一審裁判所がこれを知悉しながら容認した事情という、全く新しい事実を立証趣旨としたこと、その二は、本件第一審判決は、検察官冒頭陳述に添付された被告会社の修正損益計算書、修正製造原価内訳書、脱税額計算書をそのまま機械的に一分一厘の狂いもなく全面採用しているが、原審弁護人が、これら諸表に照応する内容の再修正または、修正したものを控訴趣意書に添付し、新規にして抜本的、根源的な再検討を求めたことからも知れるとおり、第一審判決には審理不尽による事実誤認があることを立証趣旨としたのであって、これらは、第一審判決以前に存在した事実に関するものであり、控訴審が第一審判決の当否を判断するについて必要、否、不可欠にして、重要なものであるからにほかならない。

しかるに、原裁判所は、原判決から十分読み取れるとおり、もっぱら第一審判決を墨守して支持することにのみとらわれて、ひたすら第一審判決の轍を踏むことに懸命の余り、第一審判決以前に存在した事実に関するもので、第一審判決の当否を判断するについて必要不可欠であって、しかも重要であり、したがって、判決に影響を及ぼすべき事実の誤認、ひいては刑の量定不当を証明するために欠くことができない場合であるにもかかわらず、この重要な事実の取調べを拒否し、同条項但書の義務を懈怠したのである。それ故、この点をもってしても、原判決は、同法第四一〇条第一項、第四〇五条第二号、第四一一条第一号により到底破棄を免れず、ひいては適正手続を保障した憲法第三一条違反、証人審問権を保障した憲法第三七条違反にあたることは疑いない。

結語

本件第一審判決、原判決に一貫して流れている本件に対する心証は、事実誤認、量刑のいずれにも通ずるものとして、量刑事情欄に表われているが、酌量すべき情状を形式的に取り上げてはいるものの、その真底に、脱税犯は現代の極悪犯罪の象徴という牢固として抜き難い誤った固定観念があるということである。そして、この固定観念が禍して事案そのものに対する判断は、皮相的、表見的に形式論理を連ねた無難主義的、浅薄なもので、深層に潜む本質的問題から逃避しているのである。これは、ひっきょう司法の権威を失墜せしめた、まことに憂うべき判決と言わなければならない。かつての心血を注ぎ、被告人と当該事案に関心を持つ世論を心服、納得せしめたかずかずの名裁判とはおよそ無縁な裁判と言わざるを得ない。

最高裁判所において、原判決を破棄して、適正な裁判を下されるよう切望してやまない次第である。

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